三章 最後の罪(前)
七月が終わり、八月が来る。
夏の勢いはますます盛り、気温も三五度を超える日が続いていた。
けれど私と鏡也さんの住んでいる眼科の地下室は空調完備で、そこへ帰れば涼しく快適だった。
(私は、いつ帰れるのかな)
夏休みの間くらいなら、ここにいてもいいとさえ思えるようになっていた。
いつしか恐怖はほとんど消え、彼との生活は「奇妙だけど楽しい」とまで私の中で変わっていった。いつの間にか敬語で話すのもやめていた。
もちろん、日常へ戻りたいと言った気持ちもある。
が、ここでの生活は本当に誘拐されたとは思えないほど楽しくて。
ちょっと遠出をしに行ったような、そんな感じだった。
けれど、鏡也さんはやはり狂気をはらんだ人だった。
彼が一人の女の子を、私たちの「アジト」に運び込んできたのは、八月二十三日のことだった。
その子は私と同じくらいの年周りで、髪が黒かった。
「だ、誰?」
彼女は答えない。ぐったりとしたまま鏡也さんに運ばれていた。
「純の知り合いかな?」
彼が代わりに答えるが、私の知り合いではない。初めて見る顔だ。
「もしかして……」
いやな予感は的中した。
「きみの高校の生徒だよ」
彼は笑った。久しぶりに見た、犯罪者らしいあの笑みだった。
「やっ……やめて!」
唐突に私は理解した。
彼女はこれから、鏡也さんによって眼球をえぐり取られるのだ。
「そんな、目をえぐるなんて……!」
「だってぼくは、今までもしてたんだよ?」
「いやあの、それはそうだけどそうじゃなくて……ああ、なんて言えば……」
狼狽する私に、彼は声を乱さず、平坦に言った。
「今回はちょっと違う。足をつけないためにやる犯行(こと)なんだ」
鏡也さんは気絶しているらしい彼女を、自分の部屋まで連れて行った。
そして彼女を置いてきて、リビングに再び出てくる。
「あの事件は津涼高校の生徒が三人続けて被害に遭い、ぼくはきみをさらったことで、警察はきみが津涼高校で四人目の被害者だとしている。けれどもし、行方不明の純が見つかるより早く、津涼高校生のこの子が目のない状態で発見されたらどうなると思う?」
警察は私のことを、連続眼球抉摘事件とは関係ないとし、一連の事件の被害者から外して単なる誘拐だとして扱うだろう。そして今、件(くだん)の事件以外に警察が割いている力はほぼないに等しい。
「そういうことだよ。そんな意味合いも兼ねてるから、今回のこれはいつも以上に、やらなくちゃならない」
「でもっ……!」
「それに、どっちにしても」
彼は犯罪者の笑みを消して、代わりに寂しく笑ってこう言った。
「ぼくの業(ごう)は、だれにも止められないから」
私は、どうすればいいのだろう。
黙って見過ごすか、
説得してやめさせるか、
それとも力ずくでも彼を止めるか。
あるいは何かもっと別の――。
しかし私はそれほど頭の切れるほうではないし、彼と力比べをしたって敵いっこない。
だからと言って黙って、見て見ぬふりをすることだって出来ない。
彼のやらんとしていること、これまでに彼がしていたこと、それは間違いなく悪で罪なのだ。
目をくり抜くなんて。
そんな風に私が逡巡していると、鏡也さんはポケットから鉛筆ほどの長さをもつマイナスドライバーを取り出して手の中で弄んだ。
「それとも、純も見る?」
彼の言葉で、私の中で血の気が引くのがわかった。
冗談抜きに、さあっ、と言った音が聞こえた気がした。
そんなもの、見たくない。
私は小学生のころに道路で車に轢かれた猫の遺体を見て吐いてしまったほど、グロテスクなものへの耐性は低いのだ。
いくら殺しでないにせよ、目の前で人の眼球がそのマイナスドライバーで――もっと精巧な器具を使うのかと思っていただけに――無造作にえぐり取られる瞬間なんて見たくないし、そんなことが自分の間近で起こって欲しいとも思わない。
「い、嫌だよ」
私がそれを見ることも。
そしてそれよりも、鏡也さんがそうすることも。
「鏡也さん……もうこんなこと……」
私は少し怖かった。
犯罪者に逆らったらどうなるか分からない。
彼は普段はそんなそぶり、全然見せないけれど、このときは――。
獲物を前にした時の彼は、いつもより全然違って、恐ろしく見えた。
「やめて……欲しいよ……」
だから、私の声はどんどん小さくなっていって。
「わたし、鏡也さんが、そんなことするの……嫌だよ」
最後のほうは、自分自身でも聞きとれないくらい小さな声――蚊の鳴くと言った表現がぴったりくるほど、弱々しかった。
きっとこんな調子では、彼に伝わりはしないだろうと思った。
私は説得なんて苦手だった。
ただ、そうして欲しくないから、そう言っただけだ。
嫌なのだ。
あんなにわたしのそばで楽しそうに笑っていた鏡也さんが、私の目の前で残酷な犯行に及ぶなんて、信じたくないし、認めたくない。
それだけだ。
「純……」
すると、鏡也さんは悲しそうに目を伏せた。
「ぼくが、こういうことするの、嫌なの?」
私の言葉を繰り返す彼。
(伝わった……?)
私はただただ、首を縦に振り続けた。
やめてくれるのならやめて欲しい。
「ダメじゃなくて、嫌って、そう言った?」
「は……い」
「そっか……ダメじゃなくて、嫌なんだ」
今度の彼の言葉は、よく分からなかった。何度もそう繰り返す。
駄目と嫌では何が違うのか。駄目と言ったほうがよかったのか。
「ごめんね、純。……それでも、ぼくは……この子の目を、えぐらなきゃいけない」
「鏡也、さん……」
私は愕然とした。
やはり彼はやるのだ。
そう思って落ち込んでいると、鏡也さんは切なそうに続けた。
「でも、でも……純の言葉、ぼくの胸に響いたんだ。嬉しかった」
「嬉しかった……?」
「正義感や法の下、ダメって言ったんじゃなかったんだね。純は嫌だって言ってくれたもんね。それは純の気持ちで、純が、ただ、嫌だって思っていたんだよね。ほんとうは……やめようかなって一瞬思った。けど、さっき言ったように証拠を消すためにやらなくちゃいけないから……この子の目はどうしてもえぐらなきゃいけない」
自分勝手だよね、と鏡也さんは言って、まだ話し続けた。
「でも、決めた。純が嫌だって言うなら、ぼくは目をえぐるのをこれで最後にする。業は止められない。止めたくない。目をえぐり続けたい。でも……純が嫌なら、我慢する」
目をぎゅっと絞るように瞑って、彼はそうきっぱりと言う。
私には分からない。
けど、鏡也さんにとっては目をえぐるのは、私が甘いものを食べたくなる、あの衝動のようなものなのかもしれない。本当ならさほど生きていく上で影響がないのかもしれない、でも本人にとってはやめられないし、やめたくないこと。
それが何であるかが、私やそのほかの「普通人」と彼はかけ離れている。
かけ離れている、だけ。
一番根元の部分では、彼だって同じなのかも知れない。
そう思った。
ならば、それを我慢することは、私には理解できなくても、とても辛いことなのだ。
「ごめんね、純」
本当につらそうに、彼は謝った。
どうしてだろう。
鏡也さんのことが責められない。
彼が目をえぐることを正当化しようとしているわけではないと思う。
けれど、私には。
鏡也さんが、かわいそうに見えた。
私はおかしくなってしまったのだろうか。
奇妙で異常な環境に置かれ、凶悪犯罪者のそばにいるせいで、私の思考もそちら寄りになってしまったのだろうか。
もう、私は「普通人」ではなくなりかけているのか。
悪人が――。
目の前の悪人が、本当に悪いことをしているのか――。
それすら、はっきりとしていたはずの思いに靄(もや)がかかる。
そんな私を放って、鏡也さんは言う。
「じゃ、行ってくるよ」
ドライバーを高く投げ上げ、ぱしっと右手で掴んで。
彼は寝室へと消えていった。
扉を少し開けて。