三章     最後の罪(後)


目が覚めるととても静かだった。

 鏡也さんはまだ起きていないようだった。

 いつもは彼が先に起きて、ご飯の支度をしているはずなのだが。

 トイレと洗顔のために私は部屋を出ようとして、いつもの習慣となっていた純白のリボンに手を伸ばす。

 と、畳まれたリボンの上に紙が一枚、セロテープで貼り付けられている。

『ぼくは用事で出かけてくるね。朝ごはんは冷蔵庫の中にあるから、チンして食べて待っていて。紅茶でもコーヒーでも好きなもの飲んでいいからね。十二時前には戻るよ。  鏡也』

 書き置きだ。

 私はそれを読んでから、リボンで髪をまとめて台所へと向かう。

 冷蔵庫を開けてみると、書き置きどおりに食事が用意されており、くっついていた付箋に「純の」と書いてあった。

 電子レンジを使い温めてそれを食べる。

 飲み物は自分で紅茶を淹れた。

 静かな朝食の時間だった。

 なんだか昨日のあの感じに似ている。

 けれど、今日は二人の距離が離れていても、気持ちは離れていない。

 だから寂しくない、とそう感じた。

 メッセージ一つでこうも違うものなんだな、と思った。

 朝食が終わり、食器を洗っておき、私は何をしようか考えた。

 鏡也さんの部屋にあった本を読むのもいい。

 けれど昨日は一日中この地下室にいたせいか、どうも体の調子がいま一つだった。

 外に出られるなら出て、少し散歩したかった。

 私は鏡也さんの部屋まで行って扉を開けた。

 そこで気づいた。

 被害者の体がない。

(鏡也さん、彼女を返しに行ったのかな)

 きっとそうだと思う。

 昨日、一昨日と、彼女はここにいたのを覚えている。

 そういえば彼はこの二日、どこで寝ていたのだろう。

(それは大したことじゃないか……)

思考をそこでやめて階段を上がった。

 そして診療室の扉を開け、使われていないそこを横切って玄関を開ける。

 すべて簡単に開き、私は外へと出られた。

「今日もあっついなあ……」

 夏は終わりかけだが、暑気はまだまだ落ち着く気配がない。

 空はどこまでも青く、入道雲が大きい。

 セミの声がシャワシャワと聞こえ、目の前を通った軽自動車の走行音に一瞬かき消されて再び聞こえた。

 とりあえず適当に歩いてみよう。

 私はもう、逃げ出そうという気は起きなかった。

 鏡也さんもきっと分かっているのだろう。

 

 

 駅とは反対方向、山のほうを目指して歩いてみた。

(なんだか子供たちが多いなあ……)

 笑い声をあげながら駆けて行く子供たちがよく見受けられた。

 大人たちもちらほらいるが、私とおなじ方向を駆けていくのは大体が子供。

 あの低い山には、子供たち専用の遊び場でもあるのだろうか。

 あるいは山全体が子供たちの遊び場なのか。

「おい早く来いよー! 夏祭りが始まっちゃうぜー!」

「シンちゃん、夏祭りは明日だよー?」

「げげっ、マジかよ!? じゃあおれのこのテンションはどうすんだ?」

「帰ろうよー。暑いしだるいし、シンちゃんママがアイスくれるよ」

「ここまで来ちゃったんだ、虫取りに切り替えっぞ!」

「えー……網も籠もないじゃん」

 十歳くらいの男の子と女の子が、そう言いながら私を追い抜いて駆けて行った。

(夏祭り……?)

 彼らの会話の中にあった、夏祭りという単語。

 こんな場所でも、夏祭りはあるのか。

(いいなあ、夏祭りか……)

 この夏、鏡也さんといろいろ遊んだけれど、お祭りには行っていない。

 彼のことだろう、人がどれだけいようと気にせずに堂々と遊ぶのだ。

 そしてその隣には、私がいる。

そんな光景を思い描いた。

私は鏡也さんと二人で、夏祭りに行きたかった。

 本来なら、家族や友人と行くようなこと。

 それを私は、彼ら彼女らではなく、鏡也さんと行きたい。

 そう思った。

 携帯を開いてみると十一時半。

 そろそろ鏡也さんも帰ってきているかもしれない。

 もしいたら、一緒に夏祭りに行こう、と言おうと思っていた。

 私は踵を返し、来た道を戻った。

 見ると、遠目でも分かる真っ白な服の鏡也さんは水無月眼科の前で立って待っている。

 私の姿を確認して、大きく手を振った。

 私は少しだけ早足で、彼のもとまで行く。

「おかえり純子。どこ行ってたの?」

 相も変わらず、朗らかな笑顔だった。人もまばらに通っているので、彼が呼んだ私の名前は偽名。

「まあいいや。それより聞いて聞いて、明日この先の山のほうで、夏祭りをやるんだよ!」

「…………」

「純子、ぼくと一緒に夏祭りに行こう」

 驚いた。

 この凶悪犯は、私と同じことを考えていたのか。

「ね、いいでしょ。もう夏も終わる。きっとこれが夏の最後のイベントだよ」

 続けてそう言った。

 私はかねてから思っていたことを、答えた。

「……そうだよね。夏祭り、私も行きたい」

「ほんと?」

 手を胸の前でパンと合わせ、鏡也さんは目を輝かせる。

「ほんとに、ほんと? ぼくと一緒に、夏祭り行ってくれる?」

 その彼の言い方が、おかしいと思った。

 彼はいつも、若干強引だった。

「行こう? 行くよね? うんそうだよね、ありがとう」のように、半ば無理やり話を進めて、それでも楽しいことばかりだったから別にいいけれども、今回はどこか違っている。

 まるでこれが現実であるかを確かめるかのように。

「ほんとに、ぼくと……」

「嘘なんかつかないよ、鏡也さん」

 私は気づいてしまった。

 鏡也さんが少しだけ、さみしそうな瞳をしていることを。

 いつものように笑って、けれどその瞳には悲しみが宿っている。

 なぜだかは分からない。

 もしかしたら彼は、夏休みの終わるとともに私を帰してくれるのかもしれない。

 その名残を惜しんでいるのだろうか。

 だから、何度も確かめる彼を、安心させるようにそう言った。

「……ありがとう……!」

 彼は目を細めて、いっぱいに笑った。

 

 

 夏祭りは山のふもとの神社で行われていた。

 水無月眼科から神社へと続く道にも、祭り気分の子供や大人がたくさん通っていて、私たちは気付かれないように外へ出るのに十分もかかった。

 私も鏡也さんも私服だ。さすがに何でも出来そうな彼も、着付けは苦手らしい。

 別に私はよいのだが、彼は浴衣姿を期待していたらしい。そのためすごく残念そうだった。

 私は水色のワンピースで、彼はいつもどおり全身白の服。お祭りということで今まで見てきた彼の姿で一番ラフな、それでもやはり白い恰好のために目立つ。

「すごい人……」

「みんなこのお祭りを楽しみにしてたんだね、きっと」

 もちろんぼくもね、と鏡也さんは言って、私のほうを見て微笑む。

 子供のような、あの鏡也さんだった。

「この村の人たちは毎年、このお祭りにおいて夏が終わることを実感するみたいだよ。そう、掲示板に貼られたチラシに書いてあったんだ」

「へえ……」

「ぼくと純子も、夏を終わらせられるかな?」

(夏……)

 その言葉で、私は考えた。

 この夏のことを。

 鏡也さんに捕まって、はじめは嫌だったけど自然と彼に惹かれていって。

 毎日毎日、彼と遊んでいて。

「私の夏……終わる?」

 そんなことは、自然と考えなくなっていた。

「終わるかもしれないし、終わらないかもしれない。でももし終わらせるなら、このお祭りで最後に思い切り楽しみたいなって。ぼくはそう考えてるんだ」

 鏡也さんは、いったい何を終わらせようとしているのだろう。

 どうして、こんなに楽しそうなお祭りで、自分自身も楽しそうに話をするのに、その目はどこか悲しそうなのだろう。

「ねえ、鏡也さん」

 たまらなくなって、私は聞いた。

 彼は立ち止まって、きょとんとした。

「夏が終わったら、どこへ行くの?」

 彼は答えない。

 そのかわり、ふふっ、と悲しそうに笑った。



     


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