エピローグ      鏡也の答




 鏡也さんは美術などに使う、作業用のカッターナイフで頸動脈を切って死んでしまったと、後で聞いた。

 日本の治安を極端に悪化させた彼が消失し、日本の治安も良くなるのかと言えばそうではなかった。

 一度悪くなった世の中はすぐには戻らず、それでも時間をかけて元に戻っていく。

あたかも、何事もなかったかのように。

 

 

 私は家に戻された。

 父も母も泣いて喜んでいたが、いちばん泣きたいのは私だった。

 我が家での久しぶりの食事は味がしなかった。

 鏡也さんの味が恋しかった。

 あの時彼にすがりついて、泣いて、離れなかった私は、ストックホルム症候群とみなされた。

 長く犯人と一緒にいる被害者は、相手に情を移してしまう精神状態のことらしい。

 それを聞いて、私は今までで一番腹が立って、医者に食ってかかった。

 そんなものではないのだ。

私は彼に、犯人として情を移していたのではない。

 一人の人として、鏡也さんのことを好いていたのだ。

 男の医者二人に押さえつけられた。

 心外なことを平気で言った医師は、

「だいじょうぶ、一時的なものだからね」

 などと言って、私の神経をますます逆なでさせた。

「もう忘れなさいよ、あんな凶悪犯のこと。純には未来が開けてるんだから」

 母も父も、学校の先生も、友人も、親戚も、口をそろえて同じことを言った。

 みんな、彼を悪と決め付け、彼のことを悪く言っていた。

 鏡也さんのことを、何も分からないくせにと、何度も何度も思った。

 私はずっと、鏡也さんのことを忘れられず、彼を好きでい続けた。

 いつかひょっこり私の目の前に現れたり、田中一郎の名でメールを突然よこしてきたりすると信じていた。

 けれど――。

 彼は帰ってこなかった。

 死んだ人間は、生き返らない。

 それに気づくまで、それを認めるまで、三年かかった。

 

 

 大学一年生の夏休みを利用して、私はひとりで水無月眼科へと行ってみた。

 扉は固く閉ざされ、中には入れなかった。

 鏡也さんはここで自分の両親を殺しており、彼もまたここで死んだことから、不吉なスポットとして町の人間には忌み嫌われるようになったらしい。

 そんな地に、私は一人立っていた。

 誰も寄り付かないせいで、草は生え放題で。

 この建物は景色に同化して、いずれひっそりと消えてしまいそうに思えた。

 暑かった。

 けれどここの暑さは、東京のあの蒸し暑さとは違っていて。

 あの、心地よい暑さだった。

(懐かしいな……)

この町は、鏡也さんといた町。

この家は、鏡也さんと過ごした家。

 あの道は、鏡也さんと歩いた道。

 あの川は、鏡也さんと遊んだ川。

あの空は、鏡也さんと見上げた空。

 

 

あの夏は、鏡也さんと生きていた夏。

 

 

 三年経っても、何も変わらなかった。

 ただ、鏡也さんだけがそばにいない。

 ただ、私が一人で、ここにいる。

 

 

――三年ぶりに戻ったこの町、ぜんっぜん変わんないね。

――そうだね。やっぱりここは、なんだかんだで、ぼくがぼくでいられる場所なのかもしれない。

――空も、川も、田んぼも、道も、すごく落ち着く。鏡也さんの故郷のはずなのに、なんだか、私の故郷みたい。

――純がぼくと一緒にこうして生きている限り、この町は純の故郷だよ。

――そんなものなの?

――そういうものだよ。

 

 

「鏡也、さん……」

 いつもいつも、毎日毎日、私はこうやって彼を自分の心に作り出していた。

 そうして妄想の世界に入り込めば、彼がそこにいて。

 けれどその夢はほんの入り口だけ、ほんの少しで覚めてしまって。

 あの時の、長い長い、それでいて短い夢の中に、もう一度入ることはできなかった。

 夢から覚めた後は、いつも涙がこぼれて、虚しくなって。

 こんなことしていたって詮無いと分かっていても。

 私はそうするしか術を持たなかった。

「でも、もう……もうやめる。そのために来たんだから」

 私は頭の後ろに手をまわした。

 純白のリボンをほどいて、髪を下ろす。

 今まで一日たりとも、寝る時と入浴時以外にはこうしていた、髪形を崩した。

 鏡也さんが大好きだった、ポニーテール。

 かわいいと言ってくれた、髪型。

 この髪型でいれば、「目印」になって、彼は私を見つけてくれるのではないか、そう思っていた。

「これ、返すよ」

 彼はどことも知らないところで、警察関係者の手によって密葬されたと聞いた。

 けれど、彼はここに、この町にいるはずだから。

 だからリボンは、この町に返すと決めた。

 リボンを返して、どうなるというわけでもない。

 けれど、少し疲れてしまったから。

 ずっと待っていて、疲れてしまったから。

会えない人を待ち続けるのは、疲れてしまったから。

 だから鏡也さんにリボンをいったん受け取ってもらって、また会えた日にもう一度結んでもらおう。

 初めて結んでくれた時みたいに、優しい手つきで結んでもらおう。

 私はソファで彼に背を向けて。

 相変わらずきれいだね、なんて言ってもらいながら、結んでもらうんだ。

 夢を見るのもいったんやめて、もう一度会えた時にそれこそ永遠の夢を見続けよう。

 そう決めた。

 私は園芸用の小さなシャベルを持ってきていた。それを用いて、水無月眼科の裏手にまわり、屈んで地面を掘り続けた。

 すぐに汗が噴き出したが、私はやめなかった。汗を拭きながら土を掘っていく。

 やがてリボンが埋まりそうなだけの穴ができて、私は立ち上がって、痛めた腰を伸ばした。

「んんー……」

 そのとき、ゴウと強い風が吹いた。

「あっ……!」

 バッグの上にちょこんと乗せていた純白のリボンが、その風にさらわれた。

 あわてて手を伸ばしたときには、もうそれは高く高く舞い上がっていた。

「鏡也、さん……?」

 私はふと思った。

 彼はそこにいたのかもしれない。

 だから、私のリボンを預かってくれたのかもしれない。

 どこまでも透き通った、この空で。

 

 

「鏡也さんは、もしかして私に会うために目をえぐり続けていたのかな……」

 リボンははるか高くまで舞い上がって、消えてしまった。

 その空に向かって、私は問いかける。

 なんとなくそう思った。

 彼の業は、おおよそ常人には理解できないもので。

 それでいて、それが自分のアイデンティティーであって、自分が自分でいられるためには目をえぐり続けるしかなくて。

 ずっとひとりぼっちで、誰からも避けられるような業を続けるせいでますます一人きりになって。

 それでも、そんな自分でも、わかってくれる人に会いたくて。

 ずっとずっと、罪を重ねていたのかも知れない。

 もう彼がいないから、その答えは知ることができないけれど。

 でも少なくとも、私は鏡也さんのことを、少しだけ分かってあげられたと思う。

 それで、それだけで満足して、彼はあんな風に舞台を整え、死を選んだのだろうか。

 夏を、自分から終えたのだろうか。

 だとしたらそれは、あまりにも惨めで。

 愚かで。

 でも、私には否定できなかった。

「私に会うためだけに生きていたみたいじゃない……」

 私はうつむいた。

 彼の生き方は、ばかばかしくて幼稚で不器用だ。

 それでいて純粋で無垢で、透明だ。

 どこまでもどこまでも、透き通った人だった。

 あんな人は、世界のどこを探したっていないに違いない。

 だから、私は、鏡也さんのことが。

 

 

「……好きだったよ」

 

 

世界でいちばん透明なあなたが、好きだったよ。

 あなたのことを好きなひとは、確かにここにいたよ。

ここに、いるよ。

 

 

 リボンの消えていった先の青空を、もう一度眺めた。

 空はどこまでも高く、そして透き通っていた。

 雲はゆるやかに流れていき、風は啼きながら木々を揺らして走っていく。

 そんな空に向けた私の言葉はすぐに消え、誰にも聞こえない。

 

 

「さようなら……」

 

 

 

 





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