鏡也



 ぼくは水無月眼科の長男として生まれた。

 父はそこの院長で、母はそこの助手として働いていた。

 母は財産目当てで父と結婚した。

 そして、ぼくが生まれた。

 けれどぼくは、大事にされなかった。

「お前のせいでどんどんあたしの金が減っていくじゃないのよ!」

 事あるごとに、母に殴られた。

「生むんじゃなかったわよ、お前なんか! 自分で金も稼げないくせして、偉そうに食わせろ食わせろって!」

 父は助けてくれなかった。

 彼はただ母に怯えて、彼女に要求されれば二つ返事で金を差し出す機械のようだった。

「お前、もう少しいい子にしろよ。欲しいものがあっても我慢しろよ。母さんを怒らすなよ」

 父はいつも、ぼくにそう言っていた。

 ぼくは何も欲しがっていない。

 ぼくはただ生きているだけなのに。

 どうしてぼくはこんなに痛めつけられるんだろう。

(ぼくは、お母さんに嫌われているみたいだ)

 それに気がついたのは幼稚園に通っていたある時だった。

 いつもいつもぼくが最後まで残って、暗くなってから父がようやく現れて、無言でぼくを家まで運ぶ。

 みんなは、他のみんなは、お母さんに迎えに来てもらっていた。

「今日は折り紙したの!」

「わあ、ゆーちゃん、上手にできたね。お母さんにも教えてくれる?」

 笑いさざめき、家に帰って行く親子。

「あらケンちゃん、転んじゃったの? 怪我大丈夫?」

「だいじょうぶ! おれ、強いから!」

「うふふ、頼もしいわ」

 子を慈しむ母と、強さを見せる子。

(なんでだろ……みんなはあんななのに、ぼくだけ違う)

 ぼくのお母さんは優しくない。ぼくを嫌いみたいだ。

 ぼくは何もしていないのに。

 なんでだろうといくら考えても分からなかった。

 やがて、私立の小学校を受験するために猛勉強させられた。

 毎日五時間しか寝かせてもらえず、うつらうつらするとベルトで叩かれた。

 問題を一つ間違うたびにベルトで叩かれた。

「痛いよお……やめてよお、こんなのもういやだよお……」

「集中するんだよ! 今からいい小学校に入って、いい大学まで行っていい仕事して、お前が無駄に食いつぶした分のお金を母さんに返すまでやめないよ!」

 毎日がそんなだった。

 父は何も言わないし、何もしてくれない。

 ただ見て見ぬふりをして、自分の仕事に逃げていた。

 受験の一月前は、三日で二時間しか寝かせてもらえなかった。

「ここにきてこんな問題で間違えてどうすんだよ! お母さんを怒らせてそんなに楽しいのかよ!」

 もう、限界だった。

 そして試験当日。

 徹夜明けで朦朧としていたぼくは、道中、軽自動車に轢かれて入院した。

 

 

 死ぬほどつらい日々は、むしろこれからだった。

 

 

 公立小学校の六年間、ぼくは一日二時間の睡眠で勉強させられ、殴られ、蹴られた。

 体はしっかりと形成されず、他の子に比べてひどく痩せていた。

 友達と遊ぶことも許されず、毎日帰ったらすぐに勉強の日々だった。

 いじめの対象になるのに、そう時間はかからなかった。

 学校でも殴られて蹴られて、教科書は汚され靴は隠され、極端に低下した視力を補うために百円で買ったメガネは何度も壊された。

 居場所がどこにもない。

 担任は母に「意見」しただけで、昼夜問わず執拗な精神攻撃を重ねられて退職を余儀なくされた。

 水無月の母に逆らってはいけないという噂が一気に広まり、代わりに入った担任はぼくのことを見もしなかった。

「どうしてお母さんはぼくをいじめるの……ぼくがなにをしたの……」

 ある時、暴力に耐えかねてそう零した。

「なんにもしてないよ。なんにもしてないで、金だけ吸い取りやがるから憎いんだよ!」

 その答えとともに、ベルトで何度も何度も叩かれた。

 父は何年も何年も、ぼくを助けるどころか関わることさえしなかった。

結果さえ出せば。

 母の満足いくような結果さえ出せれば。

 こんな日々だって終わるだろうと思っていた。

 ぼくはそれこそ必死に、名門の中高一貫校に向けて勉強して、そこに受かった。

 合格を知った瞬間、ぼくの体は崩れ落ちた。

 限界はとっくに超えていた。

 

 

 そんなこと、母には関係なかった。

 

 

 今度は国立大の頂点を目指して、今まで以上に厳しい勉強の日々が待っていた。

 体はズタズタにされてしまい、栄養が足りないせいで変なブツブツもできて、人前で服を脱げなくなった。

 またしてもぼくは生徒たちにいじめられた。

 担任は母に「意見」して、小学校の時と同じ事態があっという間に新しい学校でも繰り返された。

 ぼくは、どこまで行っても一人だった。

 

 

 ある時、美術の時間にぼくは彫刻刀を使って木を削っていた。

(いつまでこんな風に、してなきゃいけないのかな)

 それはなかなか思い通りに削られず、全体が小さくなっていく木の作品に向けた文句でもあって、自分自身の生活についてでもあった。

 もやもやしたことを考えているせいか、どうもうまく削れない。

「おっと、ほら邪魔だよ!」

 座って作業をしている僕の後ろを通って行く男子に、わざとか知らないが思い切りぶつかられた。

 僕は前のめりになって、その勢いのまま彫刻刀で自分の指を切った。

(痛っ……)

 ほとんど反射的に、僕はもう一方の手で切った指を押さえる。

 赤い血が、傷口から流れ、ぽた、と一滴、机に垂れた。

 すごく痛い。

 ちょっと切っただけなのに。

 赤い血は僕の体から溢れ、流れていく。

 殴られたり蹴られたりはしたが、血を流したことはなかった。口を切ったりしたことはあったが。

 こんな風に傷口から流れていく血を眺めることは、なかった気がする。

 なんだか、命というものがそこから流れ出てしまう、そんな気がした。

(……そうか……こうして傷つけられて、いっぱい傷つけられて、血がいっぱい出れば、みんな死ぬんだ)

 血をたくさん流して、命をたくさん流せば、死ぬ。

 僕だって死ぬ。

 今僕にぶつかった、あいつも死ぬ。

 先生でも、警官でも、通りすがった人も。

 そして。

 僕を傷めつけ続ける、あの憎い母だって死ぬ。

 殺せる。

 殺して、亡き者にしてしまえば、もう僕は痛い目に合わなくてもいい。

 そのためなら――。

「ねえ、なんかあいつ、血をずっと見てぶつぶつ言ってるよ」

「ほっとけよあんなの、かかわるとロクな事ねえぞ」

 僕は決めた。

 母を殺して、自由になろう。



     


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