第一章         「ひとり」の女の子

 

 

皿を洗い、台所全体を磨き、カビの生えたつまみは捨てた。瓶や生ゴミは家と集積場を三往復して片付けた。

一時間が経過するころ、ようやく台所らしくなった。無駄に達成感を味わってしまう。

(さて、と……)

 命令を遂行した後は、着替えて出かける準備をする。剛史が来ると、ろくな事がない。

夜中だろうと、二人は酒を飲んで騒ぐ。

そんな二人の声を聞くのが嫌だった。

酔っているせいなのか、僕の悪口も飛び交う。その延長で、僕は寝ていようがかまわず引きずり出され、怒鳴られ、殴られる、そんなこともざらにあった。

それに嫌気がさし、剛史が来るとわかった時には、僕は逃げるように出かけることにしていた。

 

 

五分ほど歩いて着いたのは、友人の家。

ここは、居場所を失った僕にとって、避難所のようなところだった。

インターホンを押し、彼の母親に迎えてもらい、家に上がる。

この母親は、僕への印象が非常に良い。彼女の息子と僕が、小学生のころからの付き合いだからだろうか。それを利用しているわけではないが、少々事情を説明すると、いつでもいらっしゃい、と言ってくれた。

だから、今日も世話になる。

 まだ部活から帰ってきていない主の部屋で、テレビにつないであった家庭用ゲーム機を起動させ、しばし興じる。

一時間ほどで、部屋の主が帰ってきた。

「あれ、電気点いてるわ……って、うお、誰かいる!?」

「あ、おかえり」

「なんだ、上杉(うえすぎ)か……」

部屋のドアを開けたまま硬直していた男が、ドアを閉めて鞄を床に落とす。

こいつは高城秀明(たかぎひであき)という。僕と同じ学校、同じ学年だ。クラスは四組で、三組の僕とは隣同士になる。

陸上部に所属しており、夏に三年生が引退したため、なりたての部長でもある。その肩書きが見た目にも反映され、無駄な肉のない引き締まった体躯の持ち主でもあった。背も高い。短く切った髪型は爽やかさも演出している。

その高城は制服を脱ぎながら、モニターに映っているゲームが何なのか確認する。

「なんだ、それやってんのか?久しぶりに対戦すっか?」

「いや、それよりちょっと教えてくれ。ここ、難しいんだ」

「それはお前、スタート地点のトランポリンをここまで持ってこないと無理だぞ」

 部屋着に着替えながらの高城のアドバイスのもと、ステージをひとつ越えた。所詮ゲームだからか、あまり嬉しくない。

ちょうどその時、高城の母親が夕食の完成を遠くから告げる声が聞こえた。

僕がいる時に彼女が作ってくれる料理は、かなりの割合で僕の好物であるカレーライスになる。

先ほどから、そのいい匂いがここまでやってきていた。

「お前が来ると、だいたいカレーが出るからな、それだけはお前に感謝しねえとな」

順番に手を洗ってから、食卓へ向かう。

 

 

食事の後、僕は再び高城の部屋へ戻り、ゲームを再開する。

「いやー、食った食った、やっぱお袋のカレーは最高だ、上杉もそう思うだろ?」

「そうは思うがお前、食べ過ぎじゃないか」

「俺は運動してっからな。でもお前もまだ入るだろ、遠慮しないでおかわりしたっていいんだぜ、そのほうがお袋も喜ぶしよ」

「そんなものか……」

 高城はベッドに腰掛け、リモコンでテレビをつけると、チャンネルを切り替えてドラマを映す。僕は床に座り込んで鑑賞する。特に観たいわけではないが他にすることがない。

少し経ってテレビ画面がコマーシャルを映している間に、僕は友人に要求した。

「高城、喉が渇いた」

「自分で行けよ」

「冷蔵庫、勝手に開けていいのか」

「いいんじゃねえ?」

友人の言葉を信じ、台所へと向かう。

リビングで洗濯物を畳んでいた高城母に承諾をもらってから、炭酸飲料のペットボトルを冷蔵庫から取り出し、食器棚からグラスを二つ取って、それらを両手に抱え高城の部屋へと戻る。

部屋へ戻ると、先ほどまで腰かけていた高城は寝ころんでいて、僕が先ほど座っていた場所にはクッションが置いてある。僕はその上に座り込み、飲み物を注ぎながら観ることにした。

「おい」

「ん」

自分にも寄こせということなのだろう、僕はペットボトルともう一つのコップを手渡した。

それから先は、二人ともほとんど動かず、たまに飲み物を注いで飲みながらテレビに目を向ける程度だった。

 やがてドラマも終わり、番組は短いニュースに変わる。テレビを消すこともなく、高城はいきなり、大きく長い溜息をひとつ吐いた。

「なんだ、不快そうだな」

「そりゃ、男二人で一つの部屋で黙ってドラマ見てりゃな」

「……今に始まったことでもないだろう」

「今、そこにいるのが」

高城は、僕を、正確には僕の座っている空間を指さして問いかけるように言う。

「奈緒だったら、俺はどんなにか幸せだと思う?」

「知ったことか。僕で悪かったな」

 奈緒とは高城の彼女だ。山口奈緒(やまぐちなお)。

僕のクラスメートでもある。

高城と山口は同じ陸上部で、一年生の秋頃から交際を始めて今も交際中のはずだが、妙に思って僕は聞いていた。

「結構付きあっておいて、山口さんはお前の家に来たことはないのか」

「来るのはお前だけだよ」

即答だった。

「何度も勇気出して、誘ってみるんだけどよ、これが全然な……俺も恋愛上級者なんだが、これはやっぱうまくいかねえな」

 何が恋愛上級者だ、その家に来ない山口が人生初の彼女のくせにとも思ったが、ここは我慢して僕は自分の推測を述べた。

「おおかた、どこどこへ行こうよ、のような言葉ではぐらかされるんだろう」

 高城が固まった。どうやら的中らしい。

「な、なんでわかんだよ!」

 ややあって、それだけを絞り出すように言う。

「それは、お前のことを信用していなくて家に行きたくないんだ」

「行きたくないとも言ってねえよ!」

「それが日本語の便利なところだろう」

「じゃあ、どうすんだよ」

 僕に訊かれても困るのだが、適当に返してやる。

「信用されていたら、向こうから家に行っていいかと聞いてくると思う。そういう、信用できる男というのを見せてみればいい。一度だけでなく、何度も」

「で、それはどうすんだよ」

「そこからは自分で考えろ。まったく、どうして彼女のいない僕が彼女持ちのお前に助言しているんだ」

 僕は呆れ、グラスに飲み物を注ぐ。

ペットボトルの中身も、残り三分の一程度にまで減ってきていた。

「……なあ、上杉」

高城も、僕の後に同じことをしながら僕に聞いてきた。

「今ので思い出したんだけどよ、お前こそ彼女作らなくていいのか」

「なんだ、だしぬけに」

「お前は、運動は俺には及ばないができるし、背も俺と同じくらい高いし、顔は俺より大きく劣るけど、すげえ甘く見れば普通だな。その難儀な性格を除けば、まあ、悪くはねえんじゃねえの?」

「……だからなんだ」

「女に不自由しなさそうなお前が、なんで高校生活も折り返しに入って、ずっと一人でいんだよって、今改めて思ったんだよ」

 そんな話をしないで欲しかった。

二、三回ほどそういうことはあった。

呼び出され、交際して欲しいと言われたこともあった。下駄箱に手紙が入っていて、中身はやはり、そういう文面だった。

が、僕はそれらすべてを断ってきた。

母を助けるために、遊ぶ時間を設けている余裕などなかったから。

が、高校生活を始めてほどなく、母親は変わってしまって。

それからは、違う理由で女の子と交際することを断り続けた。

その理由を、大雑把に一言で説明する。

唯一気の置けない友人に、何度も言った理由だった。

「家が家だし、そういう男女の色恋沙汰には、もう疲れている」

望んで一人でいるわけではない。

誰かとともにいることを望んでいるわけでもない。

「けど、もったいねえな」

「別段、一人でもどうということはない」

「でもよ……いつまで、そうしている気なんだよ」

「死ぬまで、じゃないか」

自然に口に出していた。

一番先に思いついた答えだった。

僕は死ぬまで、あの両親のために生きるから。

余計なことをしている暇など、ないのだから。

一円でも多く、酒代を稼がなければならないから。

「いや、お前がいいならそれでいいけどよ」

「なんだ、まだ何かあるのか」

「一人でいるのって、寂しくはねえのか?」

「………」

 気がつくと炭酸は、ほとんど抜けていた。

 

 

 僕の朝は早い。

剛史が家にやってくると、僕は避難所である高城の家に夜遅くまで厄介になり、母と剛史が寝静まる頃を見計らって家に戻り、眠る。

そして、早めに目覚ましをかけて、学校へ行く。

朝からあんな二人と顔を合わせるなんて、考えただけでも吐き気がする。

その結果、教室に入るのが始業一時間半前だろうと、そちらのほうがましと言えるのだ。

睡眠時間は家で寝るのが大体二時間、始業前の学校で寝る分を合わせても四時間に届かない。

足りない分は、授業中に補う。

そんな生活を続け、僕の成績はどんどん落ちていき、今では下から数えるほうが早い。

それでも、どうにかしようなどという気は起きなかった。

もう、どうでもいい。

僕はすべてを、もう投げているのだから。

 誰もいない教室の戸を開け、自分の机の横に鞄を引っ掛けると、上着を脱いでから椅子に座り、机に突っ伏して眠った。

 

 

 どのくらい眠っていたのか、唐突に、頭に何かが押し付けられた。

「う……」

目を覚ましてしまう。

顔を上げると、女の子が僕を見下ろしていた。

男と見紛うほどの、非常に短い髪の毛。

快活そうな顔つきだった。

右手には、少しだけ皺の入った一枚の紙をひらひらさせている。

そしてにまにまと、僕を見て笑っていた。

「……何の用だ、木下さん」

寝起きで気分の悪い僕は、おそらく変な表情と変な声を出しているのだろう。

「おっはよ、上杉くん! うわっ、元気なさそうな顔! 今日も今日とてローテンション全っ開だね!リニアモーターカーくらいの低空飛行だよ! 朝ご飯食べてんの?」

「うるさいな……」

突っ込む元気も湧かない。

この女の子は木下智子(きのしたともこ)という。

男女関係なく、相手が誰であろうと対等にその元気さと明るさで接する、クラスの人気者で、学級委員だ。

前期もそうだったが、つい先日の始業式後のホームルームで、後期も同じポストに決まっていた。

ちなみに彼女は、どう低く見ても偏差値60を超えるこの進学校において、成績はどの教科も入学当初から一位以外を取ったことがなく、まるで漫画の中にいそうな優等生だ。

「いったい、何の用だ」

気だるさを隠さずに聞くと、彼女は思いきり、右手の紙を突きつけた。

「はいこれ! 上杉くんたら終業式の日に、いの一番に帰っちゃったでしょ? あのあと家庭科室に集合するってことになってたのに!」

まったく覚えていない。夏休みは短期のバイトで忙しく、終業式の日から働く計画でいたため、それどころではなかった気がする。

話を聞くと、夏休み前に調理実習をするはずだったのだが、家庭科の教員の都合で休み明けすぐに延期になったという。何を作るか、材料は何を持ってくるのかなどが書かれたプリントを、終業式の日にもらうはずだったらしい。

「上杉くん、私たちと同じ班でしょ? 一人だけ材料忘れたらドン引きじゃんねえ!」

「あんたの元気さにすでに引いてるけど」

「揚げ足取らないの!とにかく、上杉くんは砂糖と醤油とオイスターソース、お願いね!」

「調味料ばっかりじゃないか……家庭科室にあるんじゃないのか?」

「もってこいってことは、家庭科室にないってことでしょ!とにかく持ってきてね、じゃないと明日困るんだから!」

「明日?」

僕が聞く前に、木下は友達の輪の中に戻っていった。残された紙を見ると、なるほど明日となっている。

「眠たい……」

そう呟いて、プリントを鞄に突っ込んだ。

朝のホームルームまで、あと十分。

睡眠は、授業中に改めてとることにしようと、そう決めた。

 

 

「よ、帰ろうぜ」

授業が終わり教室を出ると、部活が休みの高城が、僕の教室の前で待っていた。

「明日は待ちに待った調理実習だな」

帰り道、高城は開口一番そう言った。

「全然待っていない。というか、お前のとこも調理実習なのか」

「いや、調理実習は三、四組合同だろ。しっかりしろよ上杉、俺レベルになっちまったか?」

「うるさいな、誰にだって間違いはある」

朝の木下にしろ、今の高城にしろ、なにがそんなに調理実習が楽しみなのだろう。調理なら去年まではバイト先のファミレスで嫌と言うほどやっていたのだが。

「だってチンジャオロースだろ?重い中華鍋を軽々と振り回して、奈緒に頼れる男ってのを見せてやるんだぜ。こうな、こうっ」

高城が歩きながらパントマイムを始めた。クネクネした動きがなんか気持ち悪い。

それに僕は昨日、頼れる男ではなく、信用できる男といったはずなのだが。

「似たようなもんだろが。これで奈緒は『きゃー、秀明って力あるだけじゃなくて料理もできるんだねー、結婚してー』と来るわけだ。そこで俺はすかさず、こんなもんよりも俺はお前を料理して美味しく食べちゃいたいぜって言うわけだ、そうすると奈緒はコロリといっちまい、あとは俺んちにホイホイってわけだ」

「いろいろ言いたいが、まずクネクネ動くのをやめろ」

しかし、調子に乗って鍋を振り回して料理を駄目にする高城が見られると言う、小さな楽しみが出来たかもしれない。

僕は高城の肩に手を置いた。

「頑張れ、高城。料理ごと駄目になったら、気休めぐらいは言ってやるから」

「おい、それどういう意味だよ上杉!」

「聞いたままだろう」

高城を置いて、僕は駅へと歩き出す。

 

 

 


     



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