第五章 幻想(ゆめ)は現に、現は悪夢(ゆめ)に
これは夢だ。
僕が、幸せになるなど。
僕が、楽しくいられるなど。
罪を背負った者は、決して叶うことのない夢を見るだけだと気付かされた。
ほんの少し前まで、自分の背負った罪のことを忘れて、夢を見ていた。
好きな女の子と肩を並べて、埒もない話をして、駅前で別れて、彼女の顔を思い浮かべながら、ひとり帰路について。
それが、夢の最後だった。
(ずいぶんと長い夢を、見ていたんだな)
腹に受けた打撃が痛覚にじわじわと訴えてくる。そんな中で、僕はそう思った。
「てめえはやっぱり、自分の立場ってのを分かってねえみたいだな」
「な、何の話だ……」
殴られ、吹き飛ばされるように後ろにのけ反り、閉じかけた扉に後頭部を打ちつけ、くらくらする感覚に耐えながらそれだけを何とか言う。僕を殴ったその男、剛史に。
「とぼけたってネタは上がってんだよ、この野郎」
剛史は、自分の背後の下駄箱に乗っている、小さなものをつまみあげて示す。
それに見覚えがあった。昨日開耶からもらった、お菓子と思しきものが入っている袋だ。
「なっ……! 返」
言葉が最後まで出なかった。代わりに出たのはうめき声と、異様に酸い胃液だった。
「うあっ……かっ……!」
袋を奪い取ろうとして、守るもののなくなった腹に蹴りを見舞われたのだとやっと気付いた。
(苦しい……! くそっ……)
僕はたまらず、玄関にへたへたと崩れ落ちた。
次に、頭に鈍い音と衝撃が響く。
「あ……!」
頭を踏まれ、床にぶつけられた。しかもそのまま、剛史はぐりぐりと僕の頭を踏み躙ってくる。
「こんなことにうつつを抜かしてる場合じゃねえだろが、お前はよ、あ?」
「あんた、いつの間に彼女なんか作って遊び呆けてんのよ、この馬鹿野郎!」
剛史のものとは別の、甲高い声が響く。頭を押さえつけられているので見ることができないが、僕の母親も来ている。
「こん中に手紙ついてるけど、まー、くだらないこと」
「な……!」
手紙があったことすら、僕は知らない。昨夜は帰るなり疲れて眠ってしまい、開耶のお土産は机の端に置いたままだった。そして、朝の忙しさの中で、お土産のことは失念していた。
(そうか、だから、ずっと机に置き去りにしていて、それで見つかって……しかしこいつら、僕のいない間に中身を空けて、手紙まで読んだのか……!)
腸が煮え繰り返るとはまさにこのことだ。しかもあろうことか、母は開耶の手紙を声高らかに読み始める。
「双葉さん、今日はわざわざありがとう。さっき家の前で言ったけど、わたしはやっぱり双葉さんのことが好きだよ。これからもずっと一緒にいてほしいな。こんなわたしを支えてほしいな。わがままだと思うけど、それはわたしの本当の、正直な気持ちだから。だから、よろしくね。追伸、これ、けさ焼いたクッキーなんだよ。ちょっと不細工だけど、味はいいと思うから食べてみてね。わたし、お菓子作るのはちょっと苦手だなあ。もっと頑張らなきゃね、双葉さんにおいしいって言ってもらえるように」
こんなにも健気さが伝わってくる、ありがたい文章なのに、一言ひとことをこの母親がねちっこく読み上げるたびに腹が立って仕方がない。まるで開耶の真剣な気持ちを、こいつが丁寧に汚していくようだ。
「ふざけ合ってる場合じゃないだろお前は! 母さんと剛史のために、やることあるだろ! 言ってみろよ、ああ?」
「女と遊んでる間に、単語の百個や二百個くらい覚えられんだろが!」
母はぶち切れたかのように叫び、剛史は強く僕の頭を踏みつけた。
「ぐ……」
くしゃっと、軽い音がした。
這いつくばる僕の視界に映ったそれは、開耶のクッキーの袋が床にたたきつけられるさま。
そして次の瞬間、スリッパを履いた母の足がそれを踏みつけた。ぐしゃっと、今度は鈍い音がする。
(開耶のクッキーが……!)
目の前で、ぐりぐりとすり潰されていく、開耶のクッキー。
びりっ、びりびりという音が聞こえ、視界の上から、雪のような白いものがぱらぱらと降ってきた。
(これ……手紙……!)
きのう開耶は、手紙の入ったクッキーを渡してから、僕に好きだと言ってくれた。
そして今の手紙には、「さっき家の前で言ったけど〜」のくだりがあった。
頭の中で事柄がつながっていく。
開耶は昨日、この日に告白すると決め込んでいたのだろう。そのために朝、クッキーを焼き、家に呼び、僕が帰る前にお土産を準備し、手紙も付けていた。もしかしたらあの時に開耶が時間をかけていたのは、即興で手紙を書いていたからかもしれない。そして家の前で僕に告白した。
周到に用意をしていたのだ。
一生懸命クッキーを焼く姿が、短い時間で急いで手紙を書く姿が思い浮かぶ。その時に開耶が何を考えていたのかは想像に難くない。
その気持ちを、クッキーを、手紙を、こいつらはバラバラにして、踏みにじった。
(開耶の気持ちが……こんな奴らに!)
自分の頭を踏みつけている足を掴み、一気に持ち上げる。
「許せない……許さな」
剛史の足をどけ、立ち上がろうとして、
「がっ!」
上から重い拳を受けた。またしても地面に伏してしまう。
「許せないはこっちの台詞だろが、寝言言ってんじゃねえぞおら!」
剛史にぐいと髪の毛を引っ張られ、仰向けにされたかと思うと、体の上に乗られた。
(まずい、これって)
そう思う前に、顔面を何発も何発も殴られる。
いつまで経っても止まない。意識が遠のく。
「てめえはっ、俺と、てめえの、母ちゃんのために、働くん、だろ!その、ために、遊んで、ないで、勉強して、いい大学行って、就職して、金いっぱい、稼ぐん、だろが!」
悲鳴も上げられない。死ぬのではないかと思うくらい、鋭くて重い拳で殴られ続ける。
飛んでしまいそうな意識の中で、僕は思った。
(僕は、弱い……開耶の気持ちも守ることのできないほど、弱い……! 開耶に偉そうなことを言っておきながら、僕のほうがよほど……!)
「さく、や……」
僕はそれだけを、殴られながら零した。
すがるように、掴むように、祈るように。
そのあとはもう、どうなっていたのかわからない。
目が覚めた。
体がずきずきして、動けない。
(いったいどれだけ眠って……いや、気を失っていたのか)
自分のベッドの上で、あらぬ方向で倒れている。剛史に投げ捨てられるように、運ばれたのか。
思い出したくもない記憶が蘇る。
「開耶……すまない……」
天井に向けてつぶやき、歯ぎしりをする。
枕元に携帯電話が転がっていた。時間を確認しようとそれを開き、目に入った画面でまず僕の目を奪ったのは『新着Eメール 15件』『着信あり 6件』という文字だった。
(15……?)
着信もそうだが、メールの数が信じられず、そのままメールボックスを開く。差出人は全員開耶だった。
一番新しいメールを開くと、そこには短くこうあった。
『最後まで学校にこなかった……本当にどうしたの? お願いだから返信して』
(学校に、来なかった……? そんな馬鹿な)
ディスプレイ上部の時刻を見る。4時45分、夕方だった。
(ということは、気を失っていたのは30分とかそこらで……)
「じゃない!」
自分の考えを打ち消す。つい声に出た。
(一日中倒れてたのか……そのあいだ、ずっと開耶は心配して……)
着信履歴を見ると、これまた全部開耶のものだった。もう留守録を聞くのも辛い。聞かなくてもわかる、僕を心配していることを言葉に乗せているのだろう。
今できるのは、一刻も早く開耶に電話をしてやることだ。せめて声を聞かせて、ほんの少しでも安心させてやらなければならない。
開耶の携帯にかけると、相手は二秒くらいで電話に出た。
『ふっ、双葉さん!?』
ものすごく切羽詰まった声だった。
「開耶……すまない、心配掛けた」
『大丈夫なの?それに、あの電話とメールはいったい……』
「電話? メール?」
僕は小声を維持しつつ、声が漏れないようにベッドの中に潜り込んで話を続けた。
あれから電話やメールをした記憶などない。
(ああ、きっと母親か剛史が勝手に……)
携帯にロックをしておけばよかった、など思っても遅い。
『わたし、びっくりしちゃって……いったいどういうことだろって思って、こっちから電話してもメールしても連絡ないし……』
「そっか……ごめん、いまちょっと電話するの厳しいんだ、たぶん明日は学校に行けると思うから」
『え、わ、わかった』
きっと察したのだろう、開耶は深く聞かずに電話を切ってくれた。
翌朝、いつもの場所、駅前で合流できた。
開口一番、開耶はびっくりしてこう言った。
「双葉さん、顔……」
「まだ、腫れてるか」
こくこくこくと、何度も頷く開耶。やがて、小さく声を漏らした。
「どうして……」
いきさつを説明しようとすると、そうじゃないと言われた。
「どうして双葉さんが傷つかなきゃいけないの……悲しいよ……」
開耶は、泣いてはいなかった。
歩きながら、簡単に僕の身の上を話した。両親が離婚して父親がいなくなったことから、開耶に出会うまで、すべてを投げて怠惰に日を過ごしていたことを。
最後には、そのために自分は遊んでいないで勉強して、いい仕事に就いて高給を取って母親と剛史のために金を稼がなければならないと思い出さされたんだ、彼女がいるとばれて、殴られて気を失っていたんだ、と言った。
ずっと言わなかった、僕の身の上。聞いた側が不快感しか覚えないこと。高城でさえ、半分ほどしか知らないこと。
開耶にだけは言いたくなくて、開耶になら言ってもいいと思っていたことを、言ってしまった。
それなのに、後悔しか湧いてこない。
「う……」
開耶はうめいた。つらそうだった。だから取り繕うように謝った。
「朝からこんな話をしてしまって、すまない……」
すると、ぷるぷると頭を振って開耶は言う。
「わたし、どうしたらいい? ぎゅーってしたらいい?」
必死さを大きな瞳につめて、開耶は僕を見つめている。
きっと僕が望めば、開耶は朝の通学路ということにも関わらず、その小さくも温かくて柔らかい体で抱きしめてくれるのだろう。その確信があった。
(これ以上求めてしまったら……)
抱きしめられたら、どうなってしまうのか。
今度は自分が、涙を流してしまうのか。
そして深みにはまって抜け出せなくなるのか。
「なにも、しないでいい」
それが怖かった。
開耶にこれ以上依存したらどうなるか、本当にわからない。
(深入りしすぎたんだ……)
深入り、それをしてはならないと自分に言い聞かせていたこともあった。
いつか終わる関係。その時に情を移し合ってはならない。自分は母親と剛史の道具だから、余計なことをしてはならないと。
けれど、少しでも入れ込んだ時点で、それこそ崩れるように開耶のことを思い、気がつけばこんな風になってしまった。
ほんの少しでも、なにかを思ってはいけなかったのだ。人形のようにすべての感情を殺そうと、一度決めた者は。
それにようやく気付かされた。
剛史と、母親と、開耶から。
だから、ずれにずれた軌道を、今からでも戻そうとする。
「むしろ、一緒にいないほうがいいのかもしれない」
「そんな……!」
開耶は悲鳴に近いような声を上げた。
「なんで一緒に、いられないの?」
「いたら、僕はまた、自分の在る理由を忘れて夢を見るからだ」
「なに? どういうこと? わかんないよ……わかるように教えて……」
「僕は、自分の感情を自ら殺してそれと引き換えに誰かに動かしてもらう人形だ。だから生きてない、けれど死んでもいない、そして夢は見ない」
「なに言ってるの? 人でしょ? 生きてるでしょ? ぎゅーってしてもらったとき、あったかかったんだよ?」
つらい。
きっと、僕の言う言葉の意味だって分からないだろうに、開耶は優しい言葉で返してくれる。
それが今、この上なくつらい。
「ほら、手だって、こんなに……!」
開耶は自分の鞄を脇に投げ捨て、鞄を持っていないほうの僕の手を両手で包みこむように握った。
「あったかいもん……!」
温かく感じるのは僕も同じだ。できるのならばずっとその温もりを感じていたい。片手だけでなく、全身で。これまでに抱き合ったように。
でも、その抱き合った記憶も、今感じている温もりも、一刻も早く消して、人形に戻らないといけない気がした。
きっとそのほうが、楽なのだから。
「やめっ……!」
「あ!」
必死に振り払うと、小さな両の掌は宙を舞うようにほどけた。驚くほど脆かった。花びらが散るように。
胸が痛んで、痛んで、でもこれ以上痛い思いをしたくないがために叫ぶ。
「許してくれ、開耶……!」
「そんな! なんで! わたしのこと、嫌いになっちゃったの!?」
「そんなわけあるか! けど、けれど、どんなに見続けても、夢は、夢のままで終わってしまう……! 現実に引き戻されるくらいなら、もう夢なんて見たくないんだ!」
「なんで! 好きでいてくれるなら、どうして……! わかんない、なんにもわかんないよ……!」
「黙れ開耶! 黙ってくれ……!」
開耶の声が、言葉が、悲痛すぎる。聞きたくない。黙れなどと、酷過ぎる言葉をぶつけても、一瞬だけ湧いた罪悪感はどこかへ流されていく。
自分が感情的になっているのがわかる。
きっと最後の感情だ。
このやり取りが終わったら、また無感情に戻れると思った。
「ちょ、ちょっと! どうしたのさくやん、上杉くん!」
「何やってんだ、上杉!」
突然後ろから二つの声が飛び、僕の体がぐいと引っ張られる。
高城が僕を開耶から引き剥がすようにし、山口が開耶との間に割って入ってきた。
「お前、朝っぱらから何してんだよ」
「二人とも何があったの? 痴話喧嘩かと思ってたけど、普通じゃないよ!」
いつから見られていたのかなど、知る由もない。この時に限ってはどうでもいい。突然入ってきた二人が邪魔で、鬱陶しかった。
「関係ないだろう、二人には……」
「あるよっ!」
僕がそう言うと、山口はものすごい剣幕と怒声で返していた。
「さくやんも上杉くんも、あたしの友達だよ! そりゃちょっとやそっとのことだったらほっとくよ!でも、友達同士が、こんな……! やだよっ!」
(…………)
今まで見たことのない山口に最初こそ驚いたが、その言葉で一つ気づいた。
この状況から体よく抜け出せる、卑劣な道に。
「そうだな、開耶と山口さんは友達だったんだな。もう開耶は僕がいなくても、一人じゃないじゃないか。もう、僕なんか要らないじゃないか。さみしくないじゃないか」
「えっ……?」
「は……?」
女の子二人の頭に疑問符が浮かんだところで、僕は高城の腕を払って身を自由にした。
(もういいだろう、あとはこの二人に任せておけばきっと開耶は大丈夫だ)
「開耶、ごめん」
山口越しにそう言うと、開耶はへなへなとへたり込んでしまった。おそらく彼女も、もうこいつは駄目だと、何を言っても届かないと悟ったのかもしれない。
それを最後に、僕は神崎の前から姿を消すべく歩き始めた。
「おい、どこ行くんだよ上杉!」
「学校に決まってるだろう。他に何がある」
「こんなさくやんを置いていくの!?」
僕にはそれ以上語る言葉を持っていなかった。黙って歩く。
「そんな……やだ……やだ……」
蚊の鳴くような声が、耳に残る。山口が、ひどすぎるよと叫ぶ声よりも、高城が、馬鹿野郎と怒鳴る声よりも、はるかに小さいはずなのに。
どうしても気になって、ちらっと振り返った。
開耶は、泣いてはいなかった。