エピローグ 桜と神様
「上杉くん、ほらここ! なんか書いて! はいペン!」
山口が卒業アルバムを開いた。
開いているページには、彼女のクラスメートや部活の後輩、友人たちの祝い文句がぎっしりと詰まっている。中央近くにひとつだけぽっかりとできている空白があり、そこを指さしながらアルバムを僕に押し付けてきた。
「何を書けと……」
山口のペンとアルバムを持って困惑した。仕方なく、日本人なら誰でも知っているアニメのキャラクターの中で一番デザインが単純な間抜けなロボットの顔を描き、吹き出しを作ってその中に「祝卒業」とだけ書いた。それを見て山口は叫ぶ。
「上杉くん、センスねえー!」
「うるさい! どうでもいいだろう!」
「私のこれに同じものを書いたら承知しませんよ」
いつの間に来ていたのか、山口の隣で藤井もアルバムを開いていた。僕はさらに困惑し、彼女のアルバムには先ほどのものとは違う、これまた単純なデザインのキャラクターを描いて吹き出しの中に「祝卒業」と書いた。
藤井は、出来上がった絵を十秒ほど黙って見つめていたかと思うと、ぼそっと言ってくれた。
「……捻挫してください、このヘタ杉が」
「…………」
「うわ、ヘタ杉だって! どんまい、うえす……ヘタ杉くん!」
「上杉でいい……」
「ヘタ杉もやっぱり奈緒やトモと同じバカだったって、卒業式になって初めてわかりましたよ」
「えーちょっと! 今まであたしとトモは、エリカにバカだって思われてたのー!?」
「こりゃ一本取られたねー! あっねえねえ、私のにもなんか書いてー!」
山口が頭を押さえ大げさに嘆いていると、そこに木下も現れ、僕に向けてアルバムを突き付けた。僕は半分自棄になって、山口のアルバムに描いた奴をもう一度描く。
「うわー、ヘタ杉くんセンスなさすぎー!」
「他に描けないんだ! そしてなんでみんなヘタ杉って言うんだ!」
「最初からこの弱点を知っていれば、いろいろ楽しめたのに残念でしたね」
「だよねー! あっ、あたしらもなんか書いたげるよ、ヘタ杉くんアルバム貸して!」
「その呼び方をやめろ!」
言い終わる前に山口は僕のアルバムを奪い取っていた。机の上に白紙のページを広げ、鼻歌を歌いながらペンをのびのびと走らせる。
山口の後に木下と藤井も続く。
白紙だったページは、三人分だけで埋まりそうだった。点在しているヘタ杉という文字は少し勘弁して欲しいのだが。
「なあ、上杉よ」
「なんだ」
開耶に会おうと四組の教室に赴こうとして、ちょうどその四組の教室から出てきた高城に声を掛けられた。
口をきっと結んで、いつになく真剣な雰囲気を漂わせている。
「お前は二回変わったよ。一回目に変わったお前は最悪だった。そしてもう一度変わったお前はまあ、マシになった。けど、元に戻ったってわけじゃねえ。あー、うまく言えねえな。いい方向になったのはそうだけどよ、違うベクトルでいい方向に変わったっつう感じか」
「何が言いたい」
「……で、そんな風にお前を二度目に変えた奴が、仮に神崎じゃなかったとしても、お前は今、そんな風に自然に振舞っていられると思うか」
少し考えて出た答えは、肯定。
「もちろんそうだ。変わりさえすれば自然になれるだろう」
「おい、それは本気で言ってんのか」
高城の声が低くなる。
「……けれど、そこで終わりなんだ」
「あん?」
「もし、その相手が開耶じゃなかったら、僕はその女の子を変えてあげられることはできない」
「…………」
「そういうことだ」
「……よく言うぜ、恋愛初心者のくせに」
高城は表情を崩して、声の高さを普段通りに戻して笑っていた。僕もつられて笑う。
「お前も頑張れよ。せっかく山口さんと同じ大学に推薦で受かったんだから。お前とて、山口さんと結婚したいって気持ちだけは強いんだろう」
「ああ。……あっそうだ、ちょっと思ってたことがあってよ。結婚したら、まあ二人で一緒の家に住むんだよな?」
「場合にもよるが、まあそうじゃないか」
「だよな」
高城が声のトーンをまた低くする。
「なあ上杉。……親友として、男として、ひとつお前に訊きてえんだ。もし、もしその時が来たら……」
(なんだ……?)
口調も表情も、先の話題と同じくらい真剣だった。高城は続きを言うのを躊躇っているかのように、しばし黙する。
やおら高城は口を開き、大真面目に問いかける。
「……俺のあんだけあるエロ本は、どこに隠したらいいんだ?」
「とんだ恋愛上級者だな、お前も」
「二人とも、待って」
開耶と一緒に校門を出て歩き出そうとしたところで、後ろから山口に呼び止められた。
「なんだ」
「あのさ、上杉くん、あたしが餞に何を言っても、もうわかってると思うけどさ。……さくやんを大事にね」
「ああ……」
「あはははは、照れてる照れてる」
山口は僕を指さして笑う。それから開耶のほうを向いて、
「さくやん」
「え、なに……?」
「あたしは秀明と付き合ってるし、中学の時にも二人くらい付き合ってたから分かるんだけど、上杉くんと一緒にいるのってね、普通の男の子と付き合うより何倍も大変でめんどくさいんだよ」
「悪かったな……」
つぶやく僕をよそに、開耶は笑って答えた。
「うん、わかってる」
「だよねえ。……でも、それでも……上杉くんをよろしくね。こんな子の面倒見れるの、さくやんだけだってはっきり言えるからさ」
「つつくな」
人差し指でぐいぐいと僕の頬を突いてくる山口。
開耶はそんな様子を見て笑って、もう一度答えた。
「わかってる。それこそ、痛いくらいにだよ」
「あはは、なら安心……あっやばっ、後ろからうるさいのが来た! じゃね二人とも、またどっかで!」
山口は突然駆け出し、小さな体ですいすいと人混みをよけていく。それを眺めている僕たちの横を暴風が通り過ぎ、山口の後ろを馬鹿が追いかけていった。人混みをラッセル車のように跳ね飛ばしていく。
「うおー、待てよ奈緒! 卒業祝いに俺の童貞やるってずっと前からの約束だろー!」
「やだよー! 変態にあげるもんはなんもないよー!」
叫びながら逃げる少女と、吼えながら追いかける馬鹿な変態。後者は捕まってもおかしくない。高城は、まだ身分が高校生であるということを失念していそうだ。大学に行けなくなったらどうするのだろう。
それを僕と開耶は呆けたように眺めていた。
「最後まで激しいね、あの二人も……」
「まったくだ。あの二人、仲良いのか悪いのか」
「んふふ、きっととっても仲良しさんなんだよ。わたしたちとちょっと違うけど、仲良しなのは一緒」
「かもしれないな」
寄り道をして帰ろう、と開耶が言うので、家の近くの桜並木を僕たちは歩いていた。道の両端には桜の木が短い間隔で整然と植わっており、それらがみんな開花を待つように蕾を膨らませていた。
「お弁当、いーっぱい作るから。お父さんもお母さんも連れてさ、みんなで桜を見ながらわーってやろ。二人っきりで、夜桜もいいよね」
「ああ」
桜の下で笑顔を見せる、開耶のそのさまを見て僕は朝も思っていたことを言おうと、足を止め開耶に呼びかける。
「そういえば、さ。開耶に救われたあの冬の入り、あれからしばらく経った、そうだな、ぼろぼろの期末が返ってきた頃かな」
「うん?」
開耶は小首を傾げ、穏やかな表情で続きを待っている。
「その頃、ふと思い出したことがあって、今まで言えなかったことがある」
「え……? どんな? 隠し事?」
「そういうことではないんだが……」
開耶はしかめっ面をした。何も隠すことのない二人が、これ以上何を隠すのだろうと訝っているようだった。
が、しかめっ面と言っても軽くしわを寄せている程度で、そんな顔も可愛らしかった。
その開耶の顔から視点を上のほう、桜の木に移して僕は言う。
「強い母性、やさしさを持っていて、桜のように美しく儚いそうだ。日本神話における、桜の美しさを体現した神様だという」
「……?」
開耶は、不思議そうな顔をする。なんのことだか分からないとでも言いたげだ。
自分の名前の由来を知らないのだろうか。
それともまさか、今僕の傍にいる、この開耶がそうなのか。
そんな夢想的なことをつい考えてしまうほど、桜の下の開耶は美しかった。
「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」
「えっ……」
開耶が息をのむ。
桜から視線を戻すと、耳まで真っ赤になって両手で口を押さえている、可愛らしくも美しい神様がいた。
僕は神など信じていなかった。
それでも誰かに、目の前にいるこの女の子を神様だと言われたら、信じてしまうかもしれなかった。
僕の目の前に突然現れた女の子を。
絶望に沈んでいた僕を救ってくれた女の子を。
いつも優しく穏やかな笑顔を見せてくれる女の子を。
まだ顔を赤くしている開耶に、僕は一歩近づいた。
「そのことを思い出して、もしかして開耶は神様なんじゃないか、だからこんな僕を救ってくれたんじゃないかって、ありえるはずのない思いをずっと抱いていた。かわいくて、綺麗で、なによりもだれよりも優しい、それは神様なんじゃないかって」
「そんな……わたしは、神さまなんかじゃ、ないよ……」
切れ切れに、開耶はそう言った。それは予想していた答えだった。
「そうか、よかった。もしそうだったら困る」
「どうしたの、いきなり……」
そう聞かれて僕は再び上を向いた。見上げた空がまぶしかった。
恥ずかしいこと言うときって、双葉はいつも上向くよね、と開耶にはいつからか言われていた。
けれどかまわない。僕は今からまた、とんでもなく恥ずかしいことを口走るから、そのつもりでいてもらう。
「僕は人としてはあれだ、駄目だ。そんな僕が神様に触れたり、抱きしめたり、それどころかこんなことまでしたりしたら、呪(のろ)いを掛けられてしまう。つまり、そういう意味だ」
「……あ」
桜の木の下、華奢な体を抱き寄せ、ゆっくりと顔を近づける。
互いの口が触れ合う間際、間近に迫った開耶の小さな口が、動いた。
「もう、かけてるよ……」
「え……」
「一生つきまとって、迷惑ばっかりかけちゃう呪いなら……」
顔を真っ赤にしてそう言って、開耶は目を閉じた。
「……ならやっぱり、開耶は……」
僕も目を閉じ、そっと唇を重ねた。
それが呪いなら喜んで受けよう。
きっとそれは呪いではないけれど。
いくらでも、僕にだけ、優しすぎる呪(まじな)いを掛けてもらおう。
僕だけの神様に。
「あ、お母さんとお父さんだ」
開耶は遠くに見える自分の家、その玄関前に立つ二人の人影を見つけて足を速める。
「ただいまっ」
両親に駆け寄り、まっさきにそう言った。
「おかえりなさい、開耶。おめでとう」
「開耶、よく頑張ったな。……本当によく頑張ったな」
母が祝い、父が労う。
娘は、二つの温かいまなざしをいっぱいに受けていた。
(いいな、こういうの)
少し離れたところから、家族のなんたるかを僕は感じていた。
「あれ、双葉? そんなところでボーっとして、どうしたの」
開耶が振り返って言う。
「あ、うん……」
躊躇われた。
本当に僕も、そこに入っていっていいのか。
そこは僕に似つかわしい居場所なのか。
不安が言葉に出た。
「本当にここは僕の家で、本当にみんな僕の家族なのかって信じられなくて……」
けれどそれはすぐに、霧のように消えていった。
「君にしか開耶を任せられない。私は、君に開耶の家族になって欲しいんだ」
「私たち三人、みんなあなたのことが好きなのよ。大丈夫」
二人の、両親の言葉が優しく僕を潤していた。
開耶が父と母から離れ、僕のほうに歩み寄る。
「心配なんて、いらないよ。ここは、双葉とわたしの居場所だよ。双葉は、ここにいていいんだよ。わたしは、双葉にここにいて欲しいんだよ」
小さな右手が差し出される。
(ああ、この手は……)
僕を、絶望から救い出してくれた手。
小さくても、弱くても、何より強い手。
その手が、今度は僕を導いてくれる。
僕は自分の左手を伸ばした。
二人の間には何もなかった。
壁はいつの間にか、融けてなくなってしまっていた。
開耶は僕の手を掴み、優しく引いていく。
その力に逆らわず僕は歩いていき、開耶の、僕の両親の元まで導かれていた。
三つの笑顔が僕を包みこんでいた。そして今の僕もきっと、みんなに負けないくらいの笑顔でいるのだろう。
「……ただいま」
「うん、おかえり」
ひときわ美しく、開耶は笑った。
僕はここで生きていこう。
新しい世界の中で、本当の家族とともに。
なによりも誰よりも愛しい女の子のそばで。
僕は生きていこう。
完