メルトウォール

 



 プロローグ  行き場をなくした願いは絶望へと転ぶ

 

 

「双葉(ふたば)、どこ行ってたのよ! 言ってきますも言わないで、勝手に出ていって! この馬鹿野郎!」

「……学校だけど。もう夏休み、終わったから」

高校の授業が終わり家に帰ってただいまと言うと、奥の和室の襖がすごい勢いで開き、中から太った女が現れた。僕の姿を見るなり、金切り声を上げた。

 目の前の母親に対し、僕は淡々と答えた。他にどんな理由があるのだろう。だいいち今朝、「行ってきます」は言った。酔いつぶれて寝ていたほうが悪いのではないか。

「あっそ、なら、台所を早く片付けなさい!」

「どうして」

 大声で命令する母親に、理由は分かっているが、一応聞く。

「剛史(つよし)が来るからに決まってるでしょ! 台所があんなぐちゃぐちゃで、なにを作ってやればいいのよ!」

「自分でやったらいいじゃないか、僕は台所を荒らすような真似はしていない」

「今、寝るとこをきれいにしてるんじゃない! ここはあんたにやらすわけにはいかないでしょ! 一番大切な所なんだから! ちょっとは考えろ、この馬鹿息子! 恥ずかしいわ!」

「…………」

「今から寝るとこやって台所やって床や風呂やトイレとか掃除して、他にもいろいろひとりでやってたら、剛史が来るまで間に合わないのがわかんないの!?」

「……わかった、片付ける」

 もう何も言いたくはなかった。

僕は黙って、着替えずにそのまま台所へと向かう。

 そこは、予想していた通り荒れ放題だった。

日本酒、ビール、ウイスキーの瓶が、床だろうが流し台の上だろうが散乱して、ラップすら掛けずに放っておいたつまみが異臭を放っている。カビも生えていた。洗われていない食器が山のように積まれ、それもまた臭かった。

(なにが、剛史がくるから、だ……くそっ、くそっ……)

心の中で悪態を吐きながら、皿をごしごしと擦る。

 

 

剛史とは、母親の恋人だ。

僕が十四歳のときに両親は離婚し、父親はどこかへ消えた。

連絡も取れない。

あまり家にいることのない人間で、それでも仕事だけはこなす人間だと僕の眼には映っていた。

両親の間は、喧嘩が絶えなかった。

怒鳴り声と金切り声で、夜中に何度も目が覚め、怖くて眠れない、そんなことはいくらでもあった。

何がそんなに互いが気に食わなかったのか、わからない。

ある晩、父親は離婚届を突き付け、僕の目の前で母親を思いきり殴りつけた。

――もうお前にはついていけない。

それが最後の父の言葉であり、腰を抜かして震えている僕には顔すら向けず、すでに用意していたのか、荷物を抱えすぐに家を出て行った。

残された母は、立ち上がりもせず泣いていた。

そんな母を見て、僕は決めていたのだ。

僕が、父親の代わりも果たそうと。

母のことが、好きだったから。

そう決め、勉強に精を出し、少しでも偏差値の高い高校に行こうと息巻いていた。その先は、偏差値の高い大学へ行こう、高給を取れる職に就こう、そして母を楽にさせようと、そこまで考えていた。

高望みしすぎたのか、公立高校の入試は失敗したが、かなり偏差値の高い私立の進学校に入学できた。

――まだスタートラインにすら立っていない。もっと勉強して母さんを楽にできるように頑張らなくては。

僕は入試が終わって春休みになっても頭の螺子を緩めず、毎朝五時には起き、高校の勉強の予習に励んでいた。

――今からでも金を稼ごう。仕事から帰ってくたくたの母さんのためにおいしいご飯を食べさせてあげられるように、料理のスキルアップも兼ねて飲食店で働こう。

 そう思ってファミリーレストランをバイト先に選んだ。僕の高校はバイト不可だが、母子家庭で収入も低いため特別に許可を貰った。

バイトのせいで学業が疎かになるなどあってはならないから、効率の良い時間の使い方も試行錯誤した。

成績の順位が上がるたび、給料が入って金が貯まるたび、僕は達成感を味わい、しかしすぐに兜の緒を締め直して、また勉強とバイトに打ち込んでいた。

しかし、そうやって僕が頑張っていたことは、やがてすべて壊されてしまった。

すべては、僕の独り相撲だと気付かされた。

 ある晩、学校の後のバイトを終え、家に帰ってきた。

遅くなってしまって母に心配をかけてはいないかと思ったが、家には誰もいなかった。

料理を作って待っても、いつまでも母は帰ってこなかった。

日付が変わる頃、母は見知らぬ男を連れて帰ってきた。

――いずれあんたのお父さんになる人だから。

酒臭い息を吹きかけながら、そう言った。

僕はただ驚くことしかできなくて。

母は酒などめったに飲まなかったのに。

 それからも、母は夜遅くに帰ってきては、その男を連れ、どこかで飲んできたのであろうに、さらに家の中でも飲んで騒ぐのだ。

煙草も吸うようになった。その男も煙草を吸うせいか、家中がたちまち煙草臭くなった。

ほどなくして、母は仕事を辞め、昼間からでも飲むようになった。

僕が注意すると、まるで父親と喧嘩していた時のような金切り声をあげた。

ビールの瓶を振りまわして威嚇することも少なくなかった。

金は、恋人の男が出していた。

家の主導権も、その男が握るようになっていた。

母親は、その男にひたすら媚を売るばかりだった。

 僕はこの男が嫌いだった。

大好きな母をここまで変えてしまったこの男を。

ある時、我慢が出来なくなって、僕は叫んだ。

――ここは僕と母さんの家だ。出ていけ。

血が出るまで殴られた。

――なんで俺がここにいると思う。てめえ一人の力じゃ自分で生きていくことも母ちゃんを守ることもできないくせに、ナマ言ってんじゃねえ。

 血を見つつ、僕は呆然としていた。どうしたらいいのか分からなかった。

どうしようもなかった。

その男と母は、僕が就職でき次第、再婚するという。

僕が人を守れるだけの金銭的余裕を得たら、あとは二人で朝から晩まで飲み、賭け事に時間と金を費やすと、そう聞いた。

偏差値の高い大学へ行き、高給を取れる仕事に就き、母とその恋人を楽にさせる。

それが、いつの間にか決まっている僕の未来で、人生だった。

こんなにも明確に将来が決まっているのに、僕はもう頑張れなかった。

なにもかもが馬鹿馬鹿しく思え、すべてを投げてしまった。

勉強も、バイトも、生きる意味も、なにもかも。




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