エピローグ  晴天

 

 

 何のことはない、そこは俺たちの卒業した高校だった。

「うわあー、全然変わってないねー!」

 卒業以来、五年ぶりに訪れた高校の外観は少しも変わっていない。

 よく見ると校庭に水道が増設されていたり、階段の横にスロープがついていたりと微細な変化が見受けられたが、おおむねは昔のままだった。

 今日は日曜日で、生徒は部活に精を出す者しか来ていない。中央で男子サッカー部員が声を出してボールの奪い合いをしており、隅の方でテニス部が地味にラリーを繰り広げていた。

「あのジャージ、超懐かしいねー」

「意外と着なかったのがうちのジャージだよな」

 そんなことを言いながら、俺たちは来客用の入り口から入る。

 二人分の身分証とかが必要かと思ったが、事務室にいる人の良さそうな中年女性職員に「卒業生ですっ!」と元気よく木下が言ったらあっさりと通された。こんな元気な悪人、あんまりいないからな。やはり元気が一番だ。ちなみに俺はちゃんと身分証を持ってきたけどな。

「どうすんだよ、ここで。担任にでも会いに行くのか?」

「ええー、別に会わなくていいよ、顔も忘れたし、七年たってもいるってのも考えにくいし」

 俺たちは職員室がある二階をスルーし、階段をどんどん上っていく。

 

 

「ここだ! 四階の、奥から二番目の左側! 二年三組があったとこ!」

 今は三年三組となっている教室を指し、木下は叫んだ。

 確かにここが、俺たちが二年生だった時の教室で間違いない。

 しかし木下は本当に遠慮なしに教室に入って行くんだな。そんな彼女に、俺もついていくが。

「なっつかしー! この窓の外からの眺め!」

 窓に向かって子供のように走って行く木下。窓をがらりと開けて、大きく息を吸い込んでいるように見えた。

 俺はあとから彼女の隣に並び、一緒に外を眺める。

「昌史と並んでこの景色を見たことはないけどさー、この景色は二年三組のみんなが見て、共有してきた景色のはずだよね」

「ああ、そうだな」

 そして俺は今、七年越しにその景色をもう一度眺めている。

 惚れた女と、元クラスメイトと、肩を並べて。

「私さ、三年や一年の時よりも、二年の時のほうが思い出深いんだよね」

「まあ、わからなくもないな。三年の時は受験一色だったし」

「うんうん、二年の時はいろいろ楽しいこと、いっぱいあったなあ。体育祭でしょ、文化祭でしょ、それになんと言っても修学旅行!」

「あの時は、俺とお前が行動班でいっしょになっても、まさか七年後にこうなるだなんて思いもしなかったな」

「私も」

「ならさ、木下」

 俺はずっと思っていたことを、今こそこいつに訊いてみる。

「もし俺が七年前、お前に『付き合ってくれ』って言ってたとしたら、お前はどうしてた? そのあとのお前は……変わってたと思うか?」

「うーん、どうだろねー?」

 木下は考えるようなそぶりを見せるが、すぐに頭をぶんぶんと振った。

「いやいや、考えてもしょうがないよ。結局のとこ、『そうじゃなかった』から今ここにこの私って存在があって、んでもってそれだけ。仮定は仮定でしかないんだよね」

「まあ、それ言っちゃえばおしまいなんだがな」

「あっそうだ、面白いこと考えた!」

 その話題はそこそこに、木下はとてとてと教室後ろの小黒板に向かい、チョークを手にした。

 何も書かれていないまっさらな黒板に、彼女は白い線で何かを書いていく。

「ふんふふん、ふふーん」

 何を書いているかと思えば、相合傘じゃないか。

そしてそこに書かれた名前は、当然のごとくというのか、俺たち二人の名前で――。

「ばっ、お前やめろ!」

 俺は恥ずかしくなって、木下をどかし、文字を消そうとする。

「ほら、みてみて昌史、私の『智』って字と『昌』って字、下半分が一緒! 今気づいた!」

 まあ、並べてみて俺も初めて気づいたが。正直、だからどうだって話だ。

「明日、月曜にクラスに入ってきた生徒がこれ見たら、なんだこりゃって感じになるだろ。クラス内にいないはずの二人の名前が相合傘に書いてあったら」

「あっはっは、心中した二人の霊みたいなー?」

「縁起でもないこと言うな!」

「……でもさ」

 すると木下は、調子を落として、はにかんだように笑う。

「残しとこうよ、これ」

「…………」

「月曜になったら、日直か誰かが消すだろうけどさ。それまでは残してたって、バチは当たんないでしょ。何の意味も理由もないけど、せめてそれまでは残しとこうよ」

「…………」

「そんなの、ダメ?」

 少し切なそうな彼女の瞳で見つめられると、どうにも俺は弱い。

「……わかったよ」

 俺は黒板消しを置いて、代わりにピンク色のチョークをつまみあげ、ぐるぐると何重にも傘を囲った。

 そばで、息をのむ気配がした。

 確かに、こんな行為には何の意味も理由もない。

 ただ、そうしたくなったから、残したくなったから、そうした。

 しいて理由を言えば、俺がそうやって傘を囲ってから振り向いて見たら、木下がひときわ嬉しそうに笑っていたから――。

 それが見たかったから――。

 

 

「ねえ、どっか適当なとこ座ってよ、昌史」

 俺は言われるまま、閑散とした教室の真ん中あたりの席に椅子を引いて腰かけた。

 すると木下は俺の右隣の席にやってきて、同じように椅子を引いて座りながら俺のほうを向いて話しかけてきた。

「こうしてると、高校生だった頃を思い出すね」

「そりゃ、いやでもな」

 くすっと笑ってから木下は、そういえばさ、と切り出す。

「このクラスに、いつも一人でいた、変な前髪で無愛想な男の子、覚えてる?」

「あー、知ってるぞ。俺と修学旅行で同室だった奴な」

「あの子、誰も友達いない感じで浮いてたけどさ、秋から冬にかけて、彼女できたっぽかったじゃん」

「そういや、そうだな」

 ムスッとした顔のそいつと、幸せそうな笑顔のそいつが俺の脳裏に蘇る。

「私、彼が羨ましかったなあ。あの子に何があったのかは知らないけどさ、できた彼女があの子の闇を救ってくれたみたいに、そんな風に見えた」

「ああ、たしかにあいつは変わったよな」

「……憧れ、だなあ」

 木下は、まさに怠惰な学生のように、机にうつぶせてから続けた。

「私も、あんなふうに憧れてた。愛しい人を見つければ、その人を愛すれば、その人に愛されれば、私の罪も、業も、ぜんぶぜんぶ救われるのかなって」

「…………」

 真面目な顔の木下を見て、思った。

 こいつは今、『どう』なんだろう。

 俺といて、救われたのか?

 こいつの業を、俺は救ってやれたのか?

 こいつは俺のことを好きだと言っていたけれど、それって具体的にはどういう想いなんだ?

 むしろ愛ってなんだ。

 救いってなんだ。

 業ってなんだ。

 俺はかける言葉を探して、それで――。

「……お前さ、きっともう救われてるよ」

「んえ?」

「それでも、今もし自分がまだ何か満たされてないって、自分で思うなら……」

 木下は黙って聞いていてくれる。

 俺の言葉を待っている。

 何かを、欲している。

 救いと、それ以外の何かを。

 だから俺は、示した。

「……俺のそばに、いたらどうだよ」

 さて、これが木下の求めていたものなのか、その答えは聞けなかったが――。

 木下は静かに笑ったから。

――それでよしとするか。

 

 

「屋上も開いてるんだ! この学校、警備大丈夫? 怪しげな大人に入られるよ!」

(そりゃお前と俺だろ……)

 俺の心の突っ込みも届かず、木下は屋上へ向け階段を駆け上がった先、開け放った扉から外へ飛び出した。

 七階建ての校舎の屋上。

 あたりは低層住宅しかなく、ここら一帯で一番高いのはこの校舎だった。

 今日が雨上がりで晴れている、ということもあって見晴らしもなかなかよい。ここで男友達と弁当を食べたこともあったっけか、と俺は記憶を引っ張りだす。

 もちろんここにも俺たち以外誰もいない。木下はどこだろうと見回すと、柵につかまって身を乗り出していた。

「いい天気だねー! 風が気持ちいい――!」

 まったく、元気な奴だな。

「昌史、なんかしよ、なんか」

 彼女は俺が近づいてきたことに気づいて、振り向きざまいい笑顔で言う。

「なんかっつってもな……」

「あー、バレーボール転がってる! やろ、バレーやろ!」

 即座に木下は、屋上の隅に転がっているそれに向かって駆けて行き、拾って戻ってきた。

「二人でかよ……ネットもないじゃないか」

「心のネットを張るんだよ! だいたいこの辺の高さで!」

 俺の頭とどっこいどっこいな高さの空間を、木下は何度も手で往復させる。それが心のネットか。

「ほらほら、昌史はあっちあっち!」

 仕方なく俺は木下から数メートル離れ、向き合う。

「いっくぜーい!」

 彼女の掛け声とともに、高いサーブが上がった。

 俺は落下地点に行き、レシーブで返す。

 しばらく、ラリーが続いた。

「やー!」

「よっ……と」

「だーっ!」

「よっ……と」

「うりゃあー!」

 汗を飛び散らせ、笑いながらボールを返す木下。

「よっ……と、お前、ほんと楽しそうだな」

「そりゃ、楽しいよー! 楽しくて、楽しくて、もう、ほんとにっ、しょうがない、よっ!」

 言葉の区切り区切りで、俺の飛ばしたボールを返す木下。

 その、ぴょこんとした動作と合わせ、汗の水滴も飛び散る。

(汗か……?)

 いや、よく見ると違う――。

「おりゃあー!」

(…………涙だ……)

 それに、気づいた。

(ああ……)

 こいつは昔も、こんな風に、心から笑っていられたのだろうか。

 泣くほど楽しいことに、泣くほど嬉しいことに、出会えなかったのだろうか。

 それが一度もできなかったからこそ、今までのそれは作り笑いで、今ここではこうして泣き笑いをして、俺とバレーに興じているのか――。

 考えたら分からなくなってきて、俺は――。

「……あっ!」

 力加減を間違い、あらぬ方向にボールを飛ばしていた。

 そしてそれを、追わなくてもいいのに木下は無理に追う。

 ダイビングしてボールを返そうとして、見事に失敗していた。

「うわあー!」

 盛大に転び、そのままゴロゴロとどこかへ転がって行く木下。

「お、おい木下!」

 俺は焦って、動きを止めて死んだようになった彼女のもとへ駆け寄った。

「わ、悪い悪い、にしても無茶しやがって、平気かおい」

 仰向けになった彼女はしばらく呆けたように涙目を丸く、きょとんとしていたが、唐突に、

「あは、あはっ、あははははは――――!」

 俺を見上げて盛大に笑ったので、俺は少し面食らった。

「昌史い! なんか私、今すっごい生きてた! なんか上手く言えないけど、すっごい生きてたよ!」

「…………」

「ああ……いいなあ……! こういうの、ほんっとにいいなあ……!」

 木下は、顔を少し汚したままで、いっぱいの笑顔のままで、泣いていた。

 その瞳の涙は、痛みではなく。

 喜び、きっとそれに尽きるのだと、俺は思っていた。

 木下は仰向けのまま手足を広げて、大の字になった。

 やがて彼女は目を閉じて伸びをして、また目を開く。

「わあ……空が青いなあ……」

 からりと晴れた青空を見て、涙も拭かない木下は本当に気持ちよさそうにそう言った。

「昌史……空って広いんだねえ」

「ああ、広いな」

「こんなに広くて青くて、きれいなんだねえ……」

「ああ、そうだな」

 俺も空を見上げた。

 遮蔽物のないその景色には、雲がゆるやかに流れて、太陽が光を注いでいる。そしてそのほかには何もない。

「私は……今まで上を向いてたこと、なかったのかもしれないなあ……空がこんなに広いってこと、空がこんなにでっかくて美しいってこと、子供だって知ってることにさえ、二十三年も生きてきても、気づかなかったんだもんなあ……」

「……そう、だな……」

「空の広さに比べたら、私の耐えてきたことも、存在自体も、業も、今までの人生さえも、すごく、すっごくちっぽけなんだねえ……」

「そりゃ、そうだよ。……当たり前だ」

 俺は言った。

「比べる相手が大き過ぎるんだよ。お前はお前で、今まで精いっぱい頑張って、耐えてきたじゃないか。もがいてもがいて、結局今ここでこうしてる。……それでいいじゃないか」

「えへへ……」

「少なくとも俺は、お前は立派だったと思ったよ」

 俺はそんな木下のそばで屈みこみ、寝転んでいる彼女の顔に、自分の顔をゆっくりとかぶせるように近づけていく。

 何をされるのか察した木下は、照れたように笑って。

「そういえば、こっちは初めてだよね……」

「……そうだな」

 目を、閉じた。

 

 

 本当にお前は頑張ったよ。

 頑張りすぎて壊れかけるほどに。

 どんな時も笑顔を絶やさずにいて、本当はその今にも剥がれ落ちそうな脆い笑顔の仮面を必死に素顔に押しつけ続けて。

 それがどれだけしんどいかは俺には分からないけれど。

 でももう、そろそろいいだろう。

 俺の前では素顔でいても。

 その素顔で笑えれば、笑えるならば、その笑顔は偽物なんかより、仮面なんかのそれより何倍も輝くから。

 それでも、たまには笑えないときがあってもいい。泣いたり怒ったりしてもいい。

 俺がずっとそばで支えるから、いろんな表情(かお)を見せてくれよ。

感情をそのまま出す、素直なお前が好きなんだよ。

 俺もお前が好きなんだよ。

 

 

「あのさ、昌史。 ……私、生きたい」

 それからどれだけの時間が経ったのだろうか、空を見上げたままの木下は不意にそう言った。

「こんな私だけどさ、これからどうすんのかなんて考えてないけどさ、もっと生きたい、生きていきたいって思ったんだ」

いい笑顔だった。

迷いという雨雲を払った、それは雨上がりの晴天のような笑顔だった。

だから、俺は答えた。

「いいんじゃないか、生きりゃあ。死ねばいい奴なんて、この世にいないしな」

「私も?」

「お前も」

「きみも?」

「俺も」

 そのやり取りで、木下は安心したように息を吐(つ)いた。

「そっか……うん、わかった。私、生きるよ」

「ああ、生きてくれ。俺もお前に、生きていてほしいからな……」

 いくらだって、生きている限りはやり直しがきくのだから。

 それが、モノではない、人間という存在なのだから。

 俺は寝転ぶ木下の横で、立ったまま空を見上げた。

 青く晴れ渡った空。少しだけ強めに差す光。

 もうすぐ梅雨明けだ。

 俺たちの雨の日も、そろそろ――。

 

 

「広いねえ、空……」

 寝転がったままの木下は、また同じことを俺に言った。

「ああ、広いな……」

 俺も、同じように答えた。

 空は広い。

 空は綺麗だ。

 そして俺のそばには、その空と同じくらい綺麗で、眩しい笑顔の女がいる。

 

 

 雨はいつか止む。

 降りっぱなしの雨なんてない。

 やがて晴れの日がやってきて、あたりは明るく眩しくなる。

 そんな日に、それまでの雨の日の名残のような水滴が日光に反射するさまはとても綺麗だ。

 辛いことがあっても、その辛さが幸せに変わる時、辛さは幸せに反射してきらきらと光る。

それまでの悲しみや苦しみに耐えた先にある笑顔という光には、そんな眩しさがある。

 潸潸(さんさん)と流した涙は、明るく眩しく、燦燦(さんさん)と輝く笑顔に反射して、何よりも誰よりも美しく光る。

 そんな気が、した。

 彼女を見ていたら、涙の跡を残したままの彼女の笑顔を見ていたら、そう思えたのだ。

 

 

 

 

 それは間違いなく、俺だけしか知らない、俺だけにしか見せない、木下智子の本当の笑顔だった。

 

 

 


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